2011年3月の「How Are You!」

いわき市豊間(3/23の状況)
いわき市在住の小名浜さんからの提供です。
小名浜カントリーから 塩屋崎カントリーに続く海岸線通りだそうです



東日本大震災による八戸港付近の被災状況(3/20の状況)
八戸市在住の匿名希望さんからの提供です
↑津波により港に打ち上げられた中型イカ釣り漁船
↑松の木に引っ掛かった車 ↑津波の巨大なパワーに言葉が出ない
↑横倒しになった漁船
↑破壊された岸壁 ↑地上に上がった船はデカイ
↑重機を使えば海に戻せそうだが、それは出来ないらしく、解体の日を待つという
↑コンテナが散乱 ↑「津波が来たら高台へ」の案内板は役に立ったのか?
↑泥を被った車やキズだらけの車が痛々しい



掲載日  3/18
 卒業式も終わり、例年であれば今ごろはポカポカ陽気で春の足音が聞こえる時期なのに、今年は最低気温が氷点下になる日もあるなど、厳しい試練を与える天の神も随分、イジワルなことをするもんだと思います。暖房用の灯油も、車社会の青森では必需品のガソリンも、地震により、これらの流通がストップしたせいで、大混乱になりました。

 自分は会社まで近いので、歩くことにしました。毎朝、出勤途中で写真のような光景を目にします。もし、もう少し暖かければ自転車通勤に切り替える人が多いのかも知れませんが、歩道は結構な量の雪に覆われ、自転車で走るにはまだ危険な所が多いのです。
 ただ、物流の回復が見られるようになり、徐々にスタンドに並ぶことも無くなるでしょう。あともうちょっとの辛抱です。先行きが見えないと、不安が増大しますが、ちょっとだけゴールは見えて来ました。

 今回の地震、あの豪雪だった1月に来ていたらと思うと、ゾッとします。たっぷり積もった屋根雪に押しつぶされて犠牲になった人が津軽地域で沢山出たのではないかと思います。また除雪ブルドーザーの燃料確保もままならず、雪による交通障害が想像を絶するほど、ひどいものになっていたはず。

 もし津波が発生していなければ、これほどの大惨事にはならなかったでしょう。ほとんどの犠牲者は巨大地震によるものと言うより、津波でしょう。津波さえ起こらなかったらこんなことには・・・デス。
 正直なところ、津波の怖さを初めて実感しました。まさかこれほど怖いものだとは思ってませんでした。
 かつて陸中海岸をドライブしたことがありました。その時に目を引いたのが「チリ地震大津波で波がココまで来た」という記念碑をいくつか見たことです。でも、それが現代にまた起こるとは・・・。

 地震→津波、それだけでは終わりませんでした。
 ラストは原発事故。全国の人が毎日、かたずを呑んで成り行きに注目していると思います。私はまだ諦めていません。あの惑星探査機「はやぶさ」を、回収がほぼ絶望的な状況から見事に帰還させた日本の技術力をもってすれば、今回も成功してくれるものと強く信じたいと思います。やり方を批判するのは簡単です。でも今はそんなことを言っている場合じゃありません。現場で非常に過酷な作業をしている人たちを応援しましょう。最後まで諦めません。議論はすべてが終わってから、たっぷりやればイイ。

毎朝、ガソリンを求める長い車の列が出来ます



掲載日  3/13
 今から考えると、大地震の前兆だった。
 9日昼に地震があり「揺れたねぇ〜、大丈夫?」と仙台やいわき市の友人と連絡を取り合ったばかりだったのに、まさかそのあとにとてつもない巨大なヤツが来るとは・・・。
 地震後の二日間は以下のようなものでした。
 11日午後2時46分、夜勤を前に自宅でくつろいでいたところ、振幅の大きい横揺れが襲ってきた。天井からぶら下がった照明が大きく揺れ、直後にテレビがパチパチッとオン・オフした後、消えた。揺れの時間も長く、なかなかおさまらない。幸いにしてこれだけの揺れにも関わらず、棚などから落ちて壊れたモノが無いのはラッキーだった。家には自分、カミサン、母の大人3名が在宅。子供達は皆、外出中だった。
 急いで携帯ラジオのスイッチを入れると、宮城北部が震度7と報じ、同時に大津波警報が流されている。
 ライフラインを確認してみた。電気はダメ。この時点ですぐ復旧することはないと確信。水道は最初、通りが悪かったが、まもなくして勢いよく出てきた。ガスも使用出来る。携帯は不可。イーモバイルはかろうじて繋がるのでネットは可能だが、ルーターとiPod touchのバッテリーの持ち具合次第。
 普段から用意していた防災グッズや食料、水、そして石油ストーブを2台出すなど、これから数時間後にやって来る闇の世界だけは、取り合えず回避出来るようにした。
 夜勤のため出社。市内の信号がほとんど止まっているため、車による出勤を諦めて、冷たい雪が降る中、歩いて出勤。職場も停電中で、緊急時の自家発電装置でわずかに確保し、端末の数を制限して省エネしていたが、それでも、容量オーバーで時々、ストップし、明かりが消えた。こんな状態で新聞が発行出来るのか検討される。たくさんの電力を使う輪転機が動くのか、また、万が一、ストップした場合は高速回転中の新聞用紙が切れたり、機械の中に回り込むと、大変なことになる。
 ギリギリの状況下、降版し、印刷開始。普段よりずっと少ないページ数で刷り上がってきた新聞を手に取って、深夜1時過ぎ、月明かりもなく、足元が良く見えない真っ暗な道路を帰宅。時折、車のライトで明るくなるが、通り過ぎると真っ暗になり、まるでゴーストタウンを歩いているようで気持ち悪ささえ感じる。新たに10センチほどの降雪があり、短いブーツの中は雪だらけだった。すぐに寝床に就いたものの、寒さと余震で寝た感じがせず、うとうとしていたところ、明け方4時の余震で起こされ、そのままラジオに聞き入る。
 12日は朝8時からの勤務。人の手配が出来なかったことによる緊急出動。眠気を避ける薬を飲んで仕事に入った。
 電気はまだ回復せず。朝刊が発行出来たので、夕刊は大丈夫だろうと楽観していたが、自家発電装置にトラブルが発生し、一切の端末が消えたまま、時間だけが刻々と過ぎていった。残り時間1時間となった11時、通常の電気が回復し、一斉に作業開始。地震、津波、原発、配信されてくる各地の画像は悲惨なモノばかり。朝刊同様、ギリギリのところで、発行が間に合った。
 午後、薬の効き目が切れ、猛烈な睡魔が襲ってきた。5時、帰宅。体調にも少しすぐれない面があり、夕食を取ってすぐ、死んだように就寝。
以上
 さて、徐々に余震が少なくなって地震に対する恐怖は減少してきました。が、ガソリンや灯油、食品などが不足する二次的な混乱がこれから大きくなることが予想され、自由にモノが手に入る以前のような“普通の生活”に一日でも早く戻って欲しいなと強く願うばかりです。
 最後に、犠牲になられた方に心よりご冥福をお祈り申し上げます。原発対策に立ち向かっている現場の人間には、頑張って欲しい。
地震発生当日夜の職場 明け方4時の余震で起こされる

Back