2011年4月の「How Are You!」

掲載日  4/29
 真鯛釣りでお世話になっている須藤船長が、第二飛鷹に替えて、飛鷹IIを購入し、営業することになりました。所有する飛鷹丸、海幸丸より大きい船で、釣り客12名を乗せることが可能になります。キャビンは椅子、テーブル、洗い場、クーラー、仮眠室などが備わり、木目調の室内はクルーザーのような豪華さも。もちろん、トイレも完備しています。

 出来ればゴールデンウィーク前に、この船で営業をしたかった船長ですが、秋田市の前オーナーとの名義変更や釣り船登録の手続き等に若干、時間がかかった結果、すべて終えることが出来ず、間に合わなくなったと、残念そうな表情を見せていました。
 秋田市へ出向いて、天候荒れ気味の中、海路で12時間というロングラン航海を経ての嫁入りになりましたが、パワーがあって操舵性も良く、とても満足したとのこと。
 最後に、これだけの豪華船を用意したことで「船代はどうなるの?」と尋ねると「沢山の人に乗ってもらいたいから上げないよ」と頼もしい答えが返ってきました。

 新たな気分で真鯛がバンバン釣れれば、言うこと無し。あぁ〜、早く乗りたいです。5月中旬、乗船予定なので、その時を楽しみに待つとしますか。

ゴールデンウィーク後に運航開始する飛鷹II(乗員2名+釣り客12名、合計14名まで乗船可)
船首は4名、サイドに各1名ずつ 船尾は6名ほどの釣りが可能か
船首の釣りスペースは、かなり広くなった。
ただ、手すりが少し高くて邪魔な感じがしたので、船長に話してみました
オーナーの須藤船長。左脇の入り口を通ると仮眠室が キャビン後方はゆったり寛げる空間もある



掲載日  4/15
 東日本大震災直後から宮古サンライズの開設者・小暮さんの安否がわからず、非常に心配してましたが、5日後にご家族も含めて全員無事だとわかり、ホッとしました。ただ、避難所に移るまでには至らなかったものの、電気・水道・ガス等を使えない状況がしばらく続き、大変な毎日だったとか(現在も進行中ですが)。
 ようやく通信も回復し、メールでのやり取りも可能になったので、写真の提供をお願いしてみたところ、快諾いただき、20点ばかりを送ってくれましたので、その一部を御紹介します。
 わずか1時間ほどで、これほどまでに破壊しつくす津波の物凄いパワーに恐ろしさを通り越したモノを感じます。まるで戦争のような、この光景。忘れないためにも、のちの世代にしっかり伝えていく必要があると思います。
 宮古サンライズでは「東日本大震災 」のページで、より詳しくリポートしてますので、ご覧になってみてください。なお、釣り仲間のお一人が行方不明だそうで、一日も早く発見されることをお祈りしています。
岩手県宮古市と山田町の被災状況(写真提供:宮古市在住の小暮さん)
↑宮古市向町
↑宮古市赤前
 
宮古市津軽石 法の脇
 
宮古市田老 野原
 
宮古市金浜
 
山田町織笠



掲載日  4/12
 大震災から一ヶ月が経過し、青森では物流が戻りつつありますが、それでも乳製品、冷凍食品、アルコール類などを生産する工場がまだ稼働していないため、スーパーではそれらの棚が空っぽになってます。
 そろそろ電池はもう手に入るのかな?とあちこち覗いて見ました。が、目当ての単1や単2がどこも売り切れ。なのに単3電池は、ある程度の量が残っているので考えました。

 単3の4本用のボックスがあれば、単1を使うライトにも明かりを灯すことは出来るな、と。
 そこで模型屋に走り、ボックスと、延長コードと、赤と黒のワニ口のクリップを、それぞれ2セットずつ購入(1セットが約500円)。簡単な組み立てをして、ライトに繋いだところ、当たり前ですけど、写真のように見事、光りを放ちました。

 これの良いところは、2セットを繋げば最大で12ボルト(普通の電池、8本分)を使う機器まで対応可能で、しかも単4もバネの力で留まるので用途が広いということです。

 どうでしょう? 単1が手に入らず、目の前にある売り場の単3電池を見つめるだけで、ただ指をくわえて戻らざるを得なかったアナタ。
 この「あすぱむセット」を用意すれば、問題解決です(笑)。これの使用頻度が少ないに越したことがないのは、言うまでもありません。でも、備えあれば憂いナシです。お申し込みはフリーダイヤル0120・・・・(笑)。

 ※まさか、これによって模型屋から電池ボックスとワニ口が消えるなんてこと・・・・ないでしょうね。

作るのは簡単。奥様でもお子さんでも作れます。
ワニ口だと、いろんな機器の端子に挟んで使えるので、イイんです



掲載日  4/9
 3/11以来、最大の余震が、4/7、夜の11時32分に東日本一帯を襲いました。
 前回は自宅でしたが、今回は朝刊作業のため勤務中。午前0時の降版時刻が近かったこともあり、慌ただしさがピークを迎えようかという時に、TVが「緊急地震速報」のチャイムを鳴らし、緊張が走りました。
 「どこだ?」と仕事の手を休めて注目したところ、青森も含まれるというので身構えた瞬間に、グラグラととても大きい揺れが・・・。と同時に照明が数回チカチカし、フロア内の人間の「アァ〜」の声も虚しく、電気がシャットダウンしました。
 すぐに自家発電装置に切り替わり、補助光が点いて、真っ暗闇は免れたものの、まだ揺れている。自分では楽天家だと思いますが(この性格が、あの過酷な骨髄移植を乗りきれたと良いほうに解釈してます)、徐々に揺れがひどくなって、悲観的な事が頭の中をよぎりました。間違いなく津波警報が出る揺れ。福島第一原発が心配です。
 懸命に良い方向へ持っていこうとしているのに、この大きな揺れは頭を抱えたくなるほどイヤなモノ。
 どれほどの時間、揺れていたかなど、もはや冷静に計れないほど精神的に悪い地震です。

 ざわめくフロアに、ラジオ・アナの甲高いトーンで「福島で作業している方々が急いで退避している」と伝えるニュースに、思わず、手を合わせました。「どうか津波が来ませんように」と。

 まもなくして、状況を心配して、駆け付けた人がたくさんフロアに溢れ返り、蜂の巣をつついたような騒々しさとなりました。ココだからこそ暴露しますが(笑)、接待が長引き、鼻が赤くなった方が、会場からタクシーで飛んできて仕事モードにスイッチを切り替えた人も何名かいました。昔は結構ありましたが(かつて、忽然と姿を消したイラクのフセイン大統領が米軍に発見され、忘年会の最中に、出席者が会社へシフト移動したこともありました)、現在では、絶滅危惧種と言えるかと思います(笑)。

 話戻って、マグニチュード7.4(後日、7.1に変更)、宮城県北部と中部で震度6強の巨大な余震でしたが、ありがたい事に津波はどこにも押し寄せることなく、穏やかな海のままでいてくれました。
 「助かった」 率直な気持ちデス。

 午前2時半。任務終了し、職務から解放。
 街灯がすべて消え、ヘッドライトのみが唯一の明かりという光景は不気味。まるで、この世に存在しているのは自分だけか?といった恐怖心が少しある。対向車に出会うと、ホッとして合図を送りたくなるほど孤独な家路でした。

 さて、当初、長引くと予想された停電(何しろ、電力の人の疲労度はもはやピークを過ぎているはず。そんな状況で早期の復旧を望むのは厳しいかと思ったのです)も、意に反して、翌日の昼には復旧しました。電気のありがたさと、原発に対する世論の風当たりの強さのどちらもわかる複雑な復電でした。




掲載日  4/2
 3/31、午後2時、ようやく青森市の積雪が「0」になりました。昨年も「0」が3/30なので、ほぼ昨年と同じとなりますが、地震のせいで、全く異なる4月を迎えることになりました。いまだに余震があり(青森はまだ揺れが小さいほうですけど)、落ち着かない毎日です。
 あの大震災からもう3週間経つというのに、復興に向けた明かりはまだ見えません。
 原発に至っては、全く余談を許さず、日本の力だけではどうにもならないため、多国籍チームを組んで対処することになりました。最高の知恵を出し合って、この難局をクリアし、皆が肩を抱き合って「良かった、良かった」と言える時が来て欲しいと思います。
 震災以来、更なる万が一に備えて、防災グッズをリュックにまとめたり、車に避難グッズを積んでおくなどの対策を取ってきましたが、月が変わったことを転機に、一部解除しました。準備万端にしておいたほうがまだ良いのかなと悩みもしましたが、気持ちを切り替える意味からも非常事態レベルを二つほど下げたわけです。

 我が国(日本ではなく、あすぱむ合衆国のことです)では、普段から対策を取っていたため、震災当日はたいして慌てることなく一日を過ごせました。水、食料、ライト、暖房、ラジオ等をすぐに出してきて、ひとまず安心(どこかの首相よりは迅速な対応だったと思います)。ガスはプロパンなので、お湯にも苦労しませんでしたが、もしダメでもキャンプ用のガスコンロがあるので、心配無用でした。とはいえ、これもせいぜい3〜4日が限界。過酷な環境下で長い期間を過ごしている方の辛さは想像できません。ゴールが見えてればまだしも、一向に見えない中、耐乏生活を強いられる岩手・宮城・福島の方々を何とかして助けてあげられないものかと毎日考えています。

隣りの広場はまだ1mほどの雪 道路はすっかり無くなった

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