追  悼
 ハンドルネーム「まさひろ」(本名:安達政広)さんが、海の日の2005年7月18日、急逝した。

 彼との付き合いは、電話や手紙に変わる新しい交流手段として、パソコン通信という文字ネットワークが盛んになり始めていた1996年頃。ちょうどその時、黒鯛釣りを始めた私は、釣れない釣りに解決策を求めて、ニフティーサーブという世界に飛び込んだのだった。そこには釣りのフォーラムがあり、黒鯛について語り合う小部屋があった。
 小部屋には全国の黒鯛ファンが集い、その中の一つのパーツをなしていたのが、仙台市、及び、近郊の在住者で構成する伊達藩黒鯛クラブであった。そこに「まさひろ」さんは居た。釣りの仲間はフットワークが実に軽く、青森−仙台間の距離などたいして苦にすることなく、頻繁に行き来するが、その中でも特にまさひろさんはフットワークがとても軽かった(体は大きくて重そうだが)。

 黒鯛の他に真鯛を求めて、津軽の海まで何度も足を運んでくれた。彼が来ると嵐を呼ぶとからかわれ、辛い条件下での釣りの責任を一身に浴びていたが、ちょっとだけ困ったフリを見せたあと、ガハハと笑って受け流す姿が印象的だった。

 近年は腰痛などが原因で体調が芳しくなく、辛い日々が多かったらしい。が、釣りをしている時はすっかり忘れて楽しんでいた。
 通夜(20日)、告別式(21日)では享年45歳という若すぎる死が参列者の涙を誘った。遺影には、下に掲載した真鯛を抱えて高笑いする大きい写真(伊達藩:TOMEさん提供)が使用され、涙と笑い顔の大きなギャップに当初、私は戸惑った。

 亡くなる少し前の9日、一緒に船に乗った。全体に低調で、船首に陣取ったまさひろさんからは歓喜の雄叫びが聞かれる事もなく、記念の写真も次回へのお預けとなった。まもなく迎える8月には「何度か訪れたい」と表明していたことから、なにもボウズのまさひろさんを写す必要もなかったし、まだまだこの先いくらでも魚を抱えた絵などいくらでも撮れると思っていたからだ。今となっては、なんで撮っておかなかったのだろうと悔やまれてしょうがない。

 釣り人は本命を手にして初めて満面の笑みが顔に出る。顔に最もスキが生じる時だ。遺影に使われた写真の笑みがなんと素晴らしい事か(注:この笑みには本命ゲットの喜びもさることながら、永遠のライバルであるリュウちゃんに対して勝った喜びから出たモノだとの裏情報・・いや表情報もある:笑)。この笑みが二度と見られなくなったのが悲しい。

 彼は天国に旅立った。3年前(2002年9月)に亡くなった「荒磯さん」の下へ向かったのだろうか?まさかまっすぐ天界の海に向かったわけじゃ…ないだろな。ニュースを聞いた荒磯さんはきっと困惑してるに違いない。天国でただ一人、爆釣していたのに、ライバルが突然やってくるんだから(笑)。でも、突き放すようなことはしないだろう。近頃の我々の貧果を語り合いながら、仲良く釣り糸を垂れるんだろな。
 安らかに眠れ、まさひろさん。

 なお、伊達藩黒鯛クラブのTOMEさんのHPにも追悼のページがアップされてます。こちらをクリックしてご覧ください。
メモリアル・まさひろ・・・大王

弔     辞
送る言葉

私にとっての安達政広氏は、先輩であり釣り仲間というよりは数少ない友と呼べる一人の男でした。私はいつも敬愛をこめて「おじさん・おじさん」と呼んでおりました。
たくさん酒を酌み交わし、たくさん釣りやキャンプで遊び、そして少しだけ真剣に悩みを語り合いました。
おじさんはいつも飄々としていて優しく気配りがあり、だけど繊細で少しシャイな、そんな男でした。口数が多い訳でもないのに、何故か人の心に残り、和ませ、出会ったほとんどの人から敬愛され親しまれる。そんな人間でした。

おじさんの四十数余年が短かかったのかどうか、俺にはわかりません。
おじさんの人生が満足いくものだったのか、それも俺にはわかりません。
だけどおじさんの生涯はきっと良いものだったに違いありません。
だって、いい家族にそしていい仲間に囲まれ、みんなから多くの敬愛や尊敬やそして心を人一倍貰って過ごしたのだから。

そしておじさんの今後の人生は俺たちみんなで、借り受けることにします。
代償はあまりにも大きかったけれど、あなたは「安達政広」を知る全ての人々の中で生き続けます。それは酒を飲みながらであったり、海を眺めながらだったり、時には車の中であったり、これから様々な人があなたの人生を引き継ぐ事でしょう。

安心して下さい、まさひろさんがくれた色々な思い出、その最高の笑顔、俺たちは忘れません。

あんたは、偉大な男だったよ

2005年7月21日
APTフィッシングクラブ伊達藩・津軽藩・友代表  リュウ


追悼酒会(彼の分のビアジョッキも用意されました)

Return