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★1990年 スーパーメジャー・シリーズ Game 1
この時の日米野球(正式にはスーパーメジャー・シリーズ)で最も注目されたのは、前年、阪神タイガースに在籍し、小指骨折のため38本塁打でリタイアしたものの、翌年、メジャー復帰したとたん、51本塁打してキングになったセシル・フィルダー。ミッポンのマスコミはこぞって「ミッポンの野球が彼を育てた」と大々的にミッポン野球を絶賛。異常なほど、ミッポンと彼との繋がりを強調したのも、この時期だった。
なお、ゲームは全米チーム、わずか2安打1得点という貧打。一方、ミッポン・チームもD.ボイド−R.ジョンソン−R.ディブルのリレーで4安打のみだったが3回裏の池山(ヤクルト)の2点タイムリー二塁打が決め手となって初戦の星を落とした。この敗戦以降の戦いぶりが、のちにアメリカのマスコミ各紙を賑わすこととなる。
↑今回の日米野球最大の目玉、C・フィルダー。しかし、4打数ノーヒット(2三振、1四球)に終わる。
↑一方、ミッポン・チームはルーキーの野茂を第一戦の先発に起用。この時の経験が、メジャーへの熱い憧れを抱かせたらしく、今から考えるととても重要なゲームを私は見ていたことになる。
↑MLBチーム先発は通称“オイルカン”ことデニス・ボイド。“オイルカン”とは油の缶、つまり火が付けば手に負えない、の意。気性が激しく、また、投球も冴えるため付けられたあだ名。
 
↑当時、まだ21歳のケン・グリフィー・Jrだが、22本塁打、80打点でスーパースターの片りんを覗かせていた。お父さんのシニアも一緒に来日しており、このゲームではジュニアが1番センター、シニアは2番レフトで親子同時先発出場。
当時の彼の年俸、たったの2340万円。
↑親子もいれば、兄弟も、というんで、兄のサンディー・アロマー・Jrと弟のロベルトも目玉として来日。笑ったのは、兄サンディーが、一塁ベースカバーのため一塁へ走ってきた時のこと。我々観客席に向かって何やらわめきながら大騒ぎして来た。彼のパフォーマンスだったみたいで、皆で大笑いした。
↑私の席は一塁側ベンチから少しだけライト寄りのカメラマン席の真上。しかも最前席だったため、選手達の表情がモロ見えだった。
まさか野茂をこんなに目の前で見られるんだったら一声掛けとけばヨカッタ。
 
う〜ん、記憶が定かでないが、ランディ・ジョンソンも登板してたのです。
6回から登板し、7回までの2イニングスを1安打4奪三振。当時の新聞では年俸がわずか1950万円となっており、注目度も他の選手に比べて、まだ低かった。
↑フリオ・フランコが3番セカンドで先発。あの独特なバッティング・スタイルは場内のファンを多いに沸かせた。その後、千葉ロッテに入団し、バレンタイン監督の下、快進撃したが、某GMと某ヘッドコーチの邪魔でパ制覇も夢に終わった。
↑バリー・ボンズ。26歳。パイレーツのユニフォームで何度かNLの地区優勝をしたが、結局、リーグ制覇は果たせず。この年、30本塁打30盗塁を記録したことからもわかるようにスリムだった。
 

観戦チケット(¥6,000也)。ちょっと味気ないデザインなのが非常に残念
である。いかにも合理的な方法で発行しましたというのが面白くない。   
↑試合開始前の一塁守備練習をしているフィルダー。生で見るのは初めてだったので、日本に居たときの彼と比較できないのだが、実に良く肥えていた。オシリなんか、超デカってカンジ。

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