あすぱむ徒然草
世界三大記念艦「みかさ」 | |
猿島から戻る船の上から撮影された「みかさ」 |
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前甲板から主砲と最上艦橋、司令塔を望む | |
みかさ左舷側 | 8cm砲。左舷と右舷に各4門ずつ。動かすこと可 |
30cm前部主砲の大きさには圧倒される | |
最上艦橋。東郷平八郎がココで指揮をとった | 同じく最上艦橋。操舵室(下の写真) にはラッパのような管で司令を出した |
大きい煙突 | 主砲発射の衝撃は凄かったろな | 操舵室内部 |
はとバスツアー、ラストのコンテンツは戦艦「みかさ」見学。 1900年初頭の日本の海軍力はあまり高くなく、世界トップクラスの隻数と力を誇っていた強国ロシアと一戦を交えるには相当不利だったのだが、連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもと「丁字戦法」でバルチック艦隊(この呼び方は日本だけで通用するもので外国人にバルチック艦隊と言ってもチンプンカンプンらしい)を撃破して大勝利したという話には感激した(言っておくが自分の思想は右でも左でもない)。 日本の緻密な戦略は、真面目で良く考える日本らしいなと強く感じた。 その後、みかさは太平洋戦争敗戦の犠牲になり、甲板がダンスホールや水族館など遊興施設に変えられ、さらに誰も寄り付かなくなる鉄くず同然のゴミのような悲しい運命を辿りました。 などなど、もっと詳しいことは「みかさ」の公式ホームページこちらをどうぞ。 フリータイムが約30分しかなくなり、まさに駆け足での艦内見学となった。 少なくとも1時間は欲しかった。 |
東郷司令長官等が立っていたプレート | 60cm信号探照灯 |
主錨 | Z旗(Zはアルファベットの最後なので、もう後がないの意) |
被弾鉄板雪見燈籠 | 機械水雷 |
バルチック艦隊との海戦の際の「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」はあまりにも有名。その司令を出すZ旗がこの船から掲げられていたとは知らなかった | |
艦尾に掲げられた日章旗 | 15cm副砲を操砲している様子 |
戦果は大きかったが犠牲も出ている | 海図室 |
換気の煙突が大きい | 東郷平八郎の絵 |
昭和36年(1961年)に浦賀船渠株式会社から寄贈された100/1の模型。欲しい〜な | |
士官室 | 士官室 |
洗面所 | 追悼室 |
長官寝室・左側 | 長官寝室・右側 |
東郷平八郎の胸像 | 三笠神社 |
30cm後部主砲。お弁当を広げて食べることができるらしく、初夏のお天気が良い日などはココで時間を過ごすのも良さそうだ |
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日本海開戦時の連合艦隊司令部の写真。 明治38年(1905年)10月に戦艦「敷島」で撮影されたモノ。前列中央が東郷平八郎 |
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みかさの周辺は三笠公園として整備されており、横須賀市民の憩いの場になっている。 ここにも東郷平八郎の像が立っていた |
このページを作成するにあたって、みかさのことを調べていたら、昔、青森にも寄港していたことがわかった。 1908年9月25日朝、当時29歳の明治天皇皇太子(のちの大正天皇)が青森港から三笠に乗艦して大湊要港部へ移動。同地を視察したのち、夕刻には三笠は青森港にもどり皇太子は退艦した、という資料を発見。 こういうの知ると、みかさがまた身近になってくる。やはり、もう一度、じっくり見に行ったほうが良さそうだ。 |
お楽しみが終わって… | |
東京駅で牛タンとビール | はやぶさ&こまちの連結車両 |
車内でイチローの引退を知った |
ウェ〜イ!楽しい旅だったぜぃ |
いつものことだが、楽しかったすべてのスケジュールが終わり、家に戻る時の虚しさ。 19時20分発の新幹線に乗り、イチローの引退試合となったMLB開幕戦ゲーム2を車内で観ながら帰路についた。でも、仙台を過ぎた辺りからWi-Fiが途切れるようになり、またしても圏外スマホ環境に。あぁぁ〜〜、JR東日本さんよ、キクチ君に成り代わって抗議します。 新青森駅には定刻の22時30分到着。横須賀の強い風を持って帰ったような強風。自転車がなかなか前に進まず苦労の末の帰宅となった。 翌日からは雪模様に。猿島探索の時、ツアーガイドさんに「どちらから来ましたか?」と聞かれ「青森でぇ〜す。雪がまだ残ってます」とキクチ君が返事したら、他の方たちに「ええええ〜、雪がぁ〜?」と驚かれたのだが、この時は余裕こきつつ、心の中では「もう二、三日もすれば消えるよん、へっへっへ」と思ってたのだが、大外れ。辺り一面が真っ白になるほど降ってしまった。 この日、東京ではちょうど桜の開花宣言がされたばかり。青森の春はまだまだ先なんだなぁ〜と思い知らされた。むしろ開花が早まりそうな陽気でGW前に八分散りってのは困ったことになるんで、この雪は良いのかもしれない。 |