ご挨拶
 ようこそ、あすぱむ合衆国へ。我が国は、かの「バチカン市国」よりも小さな国として、ミッポン国、青森市の某所へ2001年8月1日、建国いたしました。

 建国を記念して、同日、「あすぱむ合衆国ホームページ」をオープンし、国外に住むたくさんの方々へ、我が国、あるいは我が国が友好提携している青森県をPRし、より充実したものにしていく所存です。ユックリと御覧になった後は、ブックマーク、あるいは、お気に入りに登録いただいて定期的にお立ち寄りくだされば幸いです。
 まっ、御挨拶ということで長々と申しません。ごゆっくりど〜ぞ

2001.8.1記 


あすぱむ合衆国データ

建国記念日

あすぱむ大統領
 2001年、ねぶた祭りを目前に控えた8月1日に建国。大統領は1958年生。

 全く順風満帆な生活を過ごしていたが、2006年6月に何の前触れも無く、骨髄異形成症候群(通称、前白血病。のちに急性骨髄性白血病へ移行)を発症し、人生が大きく変わった。

 もうダメかと思ったが神は見捨てなかった。奇跡的に息子とHLA型が適合し、2007年1月、末梢血幹細胞移植を行って復活。これにより常人では、なし得ない血液型のチェンジ(A型からO型)を体験。

 2015年現在、ほぼ完治し、健康であることの幸せを、日々、実感しながら、失いかけた第二の人生を大事に生きています

首 都 ミッポン国、青森圏青森市内の某所、2階の6畳間が執務室。 大統領官邸はこちら
面 積 約65坪
人 口 6人(ファーストレディー、長男、次男、長女、母)。警護用に雑種犬1匹(コロ:2015年11月1日逝去、17年の人生にピリオドを打った)。野良猫1匹(ちくわ)。
他にミミズ、クモ、ワラジ虫など。ゴキブリは居ない。時折、ハエや蚊、蝶、トンボ、ハチ、アブなどの領空侵犯を受け、迎撃している
基幹産業 隣国(青森市)に大統領自ら働きに出て、そこから頂くサラリーが国民総生産のすべて
交 通

乗用車4台、チャリンコ(別名ケッタグリ・マシーン)1台。単車2台、エアロバイク1台。車椅子2台。


あすぱむ大統領のプロフィール

【ハンドル】

 “あすぱむ”というハンドルネーム(以下、HN)はニフティーのパソコン通信を始めた94年3月から使っている。当時、どんなHNにするか三日三晩寝ずに考えた。
 我が家(青森市)から、ほど近いところに三角形をした14階建ての珍しい建物があり、それが青森市、いや、青森県を象徴するランドマーク的な存在だったので、あやかりたいとの思いから決定。ちなみに本家はカタカナの「アスパム」(県観光物産館)と表記し、県内外の観光客で賑わってます。
 本家をリスペクトして一歩下がり、敢えて、ひらがな表記にしました。

 このHNとの付き合いは長くなり、いつのまにか「あすぱむさん」と呼ばれても抵抗なく「ハイ」と返事するようになってしまった。慣れってのは非常に怖いモノだと実感している(笑)。県外で言われるのであれば特に気にならないが(もしかすると、外国人か?と思われてるかも)、青森県内の人混みの中でHNで呼ばれると、さすがの私でも恥ずかしい。周りの人、どんな風に聞こえてるんだろ(笑)。
 とはいえ、非常に気に入っているHNなのは間違いない


   心にグッとしみた言葉

「I love my life」
 たった一度しかない人生。精いっぱい生きて、悔いのないモノにしなきゃ、損でしょ。この世に生を受けたからには、他人(ひと)に迷惑をかけない範囲で、めちゃくちゃ人生を楽しまなくちゃ。だらだらと時間ばかり過ぎるのは、もったいなさすぎる。
 
自分の生き方を好きになりたいと常に思っています。

 なぁ〜んて書いていたら、2006年6月に人生の重大な転機が訪れ、一層、強く思うようになった

「Go hard or go home」
 MLB屈指のクローザー、ジェイソン・イズリンハウゼン投手がサインに添えるフレーズ。
 「激しく行くか、家に帰れ!」・・じゃない(笑)。
 
「精一杯やれ!(それが)出来ないなら、とっとと家に帰れ!」って事か。
 
「やるときゃ、死ぬ気でやれ」の訳でもいいか

「癌になって初めて、本当の人生を生きることができる」
 2001年に前立腺ガンと診断された、当時、サンフランシスコ・ジャイアンツ監督のダスティー・ベイカーが見事に克服した時の言葉。
 自分が血液のガンになってみて、とても重い意味を持つ言葉になった。ものすごく心に染みる言葉である。まさに今、本当の人生を生きているんだという感覚があるだけに、尚更、そう思う
「You gotta believe(あきらめるな)」
 1973年、メッツのクローザー、タグ・マグロー投手が最下位に喘ぐチームメイトに奮起を促そうと発した言葉。メッツは残り53試合でゲーム差11.5を引っ繰り返して奇跡の逆転優勝をした。それから30年後の2003年3月、脳腫瘍で倒れたマグローは最初に運ばれた病院で「治療不可能」と診断されたが、息子夫婦が必死に治療可能な病院を探して転院させた結果、手術は見事に成功し死地から生還した。2ヶ月後、記者会見に現れた彼は入院中に看護師から貰ったという帽子を被っていた。それに書かれていた言葉は「You gotta believe」だった
「今日できることは、今日やろう」
 永久に時間があると思うのは間違い。人は生まれたときからプログラムされた時間の中で生かされているのかも知れない。人生の終わりは誰にもわからない。突然やってくることもあるし、長い時間を経て来ることもある。今日可能ならば、明日などと言わず、今日やろう。あの時、やってれば良かったと後悔した体験から強く思うのです

   趣  味
大リーグ
 1978年、当時、フジTVで放送開始した「大リーグ中継」を見て以来、ハマル。

 その年の秋、ビッグレッドマシンことシンシナティ・レッズが来日したのが更に拍車をかけた。当時、熱狂的ファンだった巨人が全く歯が立たず、私の野球に対する見方が大きく変わった年でもある。全17試合中、12連勝を含む14勝2敗1引き分けは衝撃的だった。「強い巨人」は少なくとも半分は勝つだろうとの予想を粉々に打ち砕いたメジャーの強さに呆気にとられ、まるで若い生娘のように魅かれていった(笑)。

 ただ、フジの「大リーグ中継」がわずか2年(80年限り)で放送中止になると、情報が非常に少なくてつらいものがあり、めげそうになった。この間の7年は長かった。
 87年、NHKが衛星放送の目玉として「大リーグ中継」を開始すると、再びメラメラと火がつく。1日ほぼ1ゲームの放送はとても貴重で、繰り返し何度も見たりもした。
 95年、野茂の活躍によって日本国内にメジャーブーム?(ドジャースブームのほうが正しいか?)が沸き起こり、日本中が大騒ぎする社会現象に複雑な心境になる。特にマスコミの取材態度のひどさには閉口した。

 98年には念願だった本場アメリカでの生観戦を果たす。人生で一番の良い思い出である。当時が懐かしい。あと1回はまた見てみたい。お金と時間が……あれば、うむ、退職したら考えてみるかな?
 詳しくはMLBのページへどうぞ。

釣  り
 1998年夏、キャンプをした際、近くの釣り堀で魚にいいようにもて遊ばれてからハマル。
 その後、近くの漁港に出かけて何でもイイから釣ろうと努力したら、カモメが釣れた。間近で見るカモメは実にでかかった。私の記念すべき釣りの第一号は「カモメ」。私の魚釣りは鳥を釣る事から始まった。実に幸先の良いスタートじゃないかぁ〜。

 冗談はこれくらいにして、釣りを始めて良かったと思うのは、自然と触れ合うチャンスが大きく増えた事である。職場と自宅を往復するのみで、休日はただ家に居て過ごすだけでは、人生つまらない。若い頃はテニスやスキーをプレイする体力があったが、40代過ぎてもやろうとすれば結構キツイものがある。アウトドアは嫌いじゃないものの、どれが自分にマッチしているのか良くわからず、もしかしたら模索していたのかもしれない。ハッキリ言って、釣りは性分に合わないと思っていた。ボケ〜ッと待って、ただ時間のみ過ぎるのはつまらない。また先端恐怖症というか、針のようにとんがったモノが怖い自分はやるわきゃないと心に決めていた。

 そんなところへ、ひょんなことから、釣りと出会ってしまった。そう、この段の上に書いた、釣り堀ボウズ事件が、なぜか闘争心に火をつけたのである。

 大リーグが早熟だとすれば、釣りは晩生(おくて)だった。40の手習いであるが、過激な釣りをしない限り、一生やっていける趣味だと自信を持っている。釣りの効能として、気象に関する知識と、釣り場の町村に対する愛着が増え、自分の世界が広がったと感じている。釣りをしていたからこそ出会えた人々がたくさん居るのが、嬉しい。

 生き物を相手として味わえる感動は素晴らしい。あの広い大海原で、自分の付けた針先の小さなエサに命を賭けてまで興味を示してくれる魚が居る事に一番の感動をおぼえる。釣り竿を通じて、右腕に伝わる魚の命の尊さ。ある名人は「釣れたどんな魚も粗末に扱うな。命を貰うのだったら(持ち帰って食べるのなら)せめておいしい餌ぐらい魚に食べさせてやれ」という。まさにその通りだと思う。

 詳しくは黒鯛のページ真鯛のページへどうぞ。

パソコン

 1992年、仕事でApple社のMacintoshを使うようになって以来、パソコンの便利さにハマル。
 過去(2000年頃)、パーソナルユースで4台を所持していた。悲しいのは、台数を重ねるにしたがってパソコン本体の購入価格が下がっているのに性能は恐ろしく上がっているという現実。敢えて、今までの投資額を計算しないようにしている。買い替えの風潮が収まり、2017年現在は軽くて小さいノートパソコン1台でほぼ十分。スマホやタブレットを持つ時代になり、デスクトップやノートPCの役割はかなり変化した。詳しくはIT環境のページを御覧ください。

キャンプ  1996年7月、青森県の小川原湖キャンプ場で初めてファミリー・キャンプをする(個人的には中学生の時から何度かキャンプ経験あり)。ただし、ファミリーとは言っても全員ではなく男グループ(当時、小5の長男と小3の次男の3人)のみ。
 たったひとつの小さなテントで夜を過ごし、三人で「最高!」などと悦に入ってたら、深夜から暴風と横殴りの強い雨になり、まるで被災した時の避難生活へと激変。この時の「こんなはずじゃなかった」がバネになり、以後、快適なキャンプを求めて、のめり込む。その後、野外でなければ到底味わうことのできないいろんな体験をするにつれて病みつきになった。毎年、最低2度はキャンプを計画するようにしていた。もっと気候的に良い地方であれば何度も行きたいぐらいである。

 アウトドアのページでは、あまり豊富ではないが、青森県内のキャンプ場やコテージなどのデータを公開していますので参考にしてみてください。

ビデオ撮影&
編集
 社会人になる前は、とにかくマスコミ関係の仕事に就きたかった。特にTV関係の仕事に。
 誤解されては困るが、華やかなタレントになりたかったという事ではない(ルックスは自分でも悪くないと思うが……バギッ!ボガッ!ちゅどぉ〜ん!)。普段は決して表面に出ることのないTVカメラマンや音声とかの部署で仕事をしたかった。が、夢破れ、始めたのはアマチュアのビデオ撮影&編集。
 現在まで、友人の結婚式、社の記念行事、特殊機器のPRビデオ、あるいは追悼番組など、約10本強の作品を世に出している(笑)。ちゃんとBGM、テロップ、ナレーションも有。
 最近は機器が老朽化し、御無沙汰気味・・というより引退状態。もはや一連の作業を行なう情熱は無い。ビデオ編集に徹夜が二日続く体力も無い。
映画鑑賞  中学の頃、水野晴男の月曜ロードショーや淀川長治の水曜ロードショーが大好きで毎週最低2本の映画をTVで観賞。ブルース・リーの「燃えよ!ドラゴン」を見た事がキッカケで一気に劇場で見る映画の素晴らしさに目覚める。以後、月20本近くは見ていたような気がする。ビデオのレンタルなんて想像できない時代だった。あの頃が妙に懐かしい。
 最近は大リーグのオフシーズン中である11月から3月頃にかけ、スカパーで集中的に見るのがパターンになりつつある。そのようにして見た映画の寸評をシネマのページで発表してますのでお時間がありましたら、そちらもお立ち寄りくださいませ。

   嗜 好 品
アルコール  年齢的な事を考えて、キリンのチューハイ「氷結ゼロ(レモン)」がメインに。以前はアサヒ・スーパー・ドライのあとに月桂冠を飲むのが毎日のパターンだったが、ホームドクターから「いずれ、体を壊す」と言われ、弱いモノに方針転換。しかし、根本的にアルコールは好き。かつては、二日酔いをして飲もうとしても飲めない日以外は「毎日、晩酌する事」になっていたが、大病してからは考えて飲むようにしている。医師もアルコールに関しては、量を間違えない限り寛容である。
タバコ

 1日40本を約20年近く吸い、自らヘビースモーカーを自負し、紫煙こそが閃き(ひらめき)のパワーの源であると強く思ってきたが、意図せず禁煙に挑戦することとなり、21世紀に入ってまもなくの2000年1月16日から禁煙プログラムを実施。

 ニコチンパッチという貼り薬に頼る禁煙プログラムに我ながら情けないなと思ったが、恐ろしいほど効き目が良く、約2ヶ月後の2000年3月上旬、無事、プログラムは終了。ほとんど離脱症状のない楽な禁煙だった。なお、味覚が正常に戻ったおかげで食欲が旺盛になり、体重が9キロほど増加。現在、減量に挑戦中も目覚ましい結果を出すには至っていない。

 意志が誰にも負けないほど弱い自分に、まさか禁煙が出来るとは思ってもいなかった。それが不思議にタバコを欲しがらなくなり、信じられないほど「いつのまにか」辞めていた。実はプログラムを実行中、数本のタバコをワザと吸ってみた。
 「ワザと」と言うのにはワケがある。辞められる自信が、この時点で非常に強かったので「試しに吸ってみようかな?」といった好奇心だった。禁断症状からくる「我慢出来ない」という吸い方とは全く違っていた。

 タバコを辞めたことでお小遣いが減らなくなったのは何事にも変えがたいメリットだった。それに加えて健康面の大きな不安を抱えなくて済むようにもなったのが精神的にも大きなプラスである。また、家族からは“煙たがれていた”存在だったのに「空気がクリーンになって、まゆをしかめなくても良くなった事がとってもイイ」と喜ばれた時は、我ながら嬉しかったし、気分も良かった。
 試す価値は充分あります。タバコと縁が切れると人生が変わります。
 禁煙するならリミットは50歳前まででしょうか?あの虚しい空咳から解放されたくないですか?禁断症状もなく禁煙できて、それまでの自分が自分でなくなったような、生まれ変わったような気分になれますよ。

 咳が出ることは将来の重大な事態を予測します。肺ガンの怖さを罹ってから思い知るのでは遅いのです。呼吸も出来ず、吐血する苦しさは誰も体験したくないでしょ?さぁ〜、レッツ!禁煙!

 2006.12月 記 ↓
 十分、健康には気を使ってきたはずが、悲しいことに骨髄異形成症候群という、とんでもない病気に罹ってしまいました。でも、タバコをやめたおかげで、入院中の禁断症状もなく、化学療法時に痰が異状に多くて苦しむこともなく助かりました。ヘビースモーカーの私だったので、もし喫煙していたら病室でもがき苦しんだはずです。


 好きなシンガー Favorite Singer
 Taylor Swift、Lady GaGa, Every Little Thing、サザンオールスターズ、米米クラブ、吉田拓郎、槙原敬之、Dream Comes True、いきものがかり、ZARD、Michael Jackson、Bon Jovi、Olivia Newton-John、Barry Manilow、ABBA、Eagles、Carpenters、KISS

 好きな俳優 Favorite actor
 Harrison Ford、Sandra Bullock、Jodie Foster、Anne Hathaway、ジャッキー・チェン

 良く見るスポーツ Favorite Sports
 MLB、Jリーグ、K−1&ボクシングなどのスタンディング・ファイト系格闘技、オリンピック、ワールドカップサッカー、NFL、世界的なスポーツイベント全般

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